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沿革
| 明治 | 昭和 | 平成 | 永田徳本人物伝 |
明治34年 (1901) 鈴木由太郎によって本所横川町に医薬品販売業 鈴木日本堂創立
頭痛膏「乙女桜」貼付剤鹿印萬金膏「シカマン」製造発売
昭和 2年 (1927) 草加工場建設(埼玉県草加市氷川町)
8年 (1933)   外用消炎鎮痛プラスター剤「トクホン」製造発売
23年 (1948)   株式会社に組織変更
25年 (1950)   大阪出張所開設(大阪市福島区西梅田)
ハワイ及アメリカ本土輸出開始
26年 (1951)   東南アジア輸出開始
28年 (1953)   日本橋にトクホンビル竣工
35年 (1960)   名古屋連絡所開設(名古屋千種区楠元町)
39年 (1964)   アフリカ、ヨーロッパ輸出開始
40年 (1965) 外用消炎鎮痛エアゾール剤「トクホンダッシュ」製造発売
43年 (1968)   外用消炎鎮痛プラスター剤「トクホン中判」製造発売
44年 (1969)   外用消炎鎮痛液剤「トクホンチール」製造発売
47年 (1972)   埼玉県宮代工場竣工(草加より移転)
48年 (1973)   外用消炎パップ剤「トクホンシップ」製造発売
49年 (1974)   名古屋トクホンビル竣工(現名古屋営業所)
55年 (1980)   外用消炎プラスター剤(透明タイプ)「トクホンクリア」製造発売
56年 (1981)   外用消炎鎮痛プラスター剤「トクホンエース」製造発売
61年 (1986)   代表取締役会長 鈴木宗一就任
代表取締役社長 鈴木規允就任
63年 (1988)   有効成分フルルブプロフェン含有医療用パップ剤「ステイバン」製造 吉富製薬(株)より発売
乙女桜(明治34年当時)
木箱のトクホン(昭和8年発売当時)
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平成 1年 (1989) (株)鈴木日本堂から(株)トクホンに社名変更
3年 (1991)   外用消炎鎮痛プラスター剤「トクホンA」製造発売
5年 (1993)   外用消炎鎮痛プラスター剤(微香性)「トクホンE」製造発売
7年 (1995)   草加研究所を宮代工場内に移転
10年 (1998)   有効成分フルルビプロフェン含有医療用プラスター剤「ヤクバン」製造
吉富製薬(株)、科研製薬(株)、三笠製薬(株)より発売
11年 (1999)   代表取締役社長 鈴木國之就任
13年 (2001)   創業100周年を迎える
フルルビプロフェン含有医療用プラスター剤「ヤクバン20」製造
16年 (2004)   外用消炎鎮痛プラスター剤「トクホン」(内容変更)製造発売
大阪出張所を中央区久太郎町に移転
18年 (2006)   外用消炎鎮痛プラスター剤「ヘクトメタシン」製造発売
20年 (2008)   本社を港区芝2丁目に移転
代表取締役会長 鈴木國之就任
代表取締役社長 中尾泰男就任
21年 (2009)   代表取締役社長 田邉芳男就任
フルルビプロフェン含有医療用プラスター剤「ヤクバンテープ60mg」製造
田辺三菱製薬(株)、科研製薬(株)より発売
22年 (2010)   外用消炎プラスター剤(フェルビナク配合)「トクホンフェルビナプラスター」製造発売
外用消炎プラスター鎮痛液剤(フェルビナク配合)「トクホンフェルビナローション」製造発売
外用消炎鎮痛エアゾール剤「トクホンダッシュエアロ」製造発売
23年 (2011)   外用消炎鎮痛プラスター剤「トクホンE」(内容変更)製造発売
24年 (2012)   大正製薬株式会社との株式交換により同社の100%子会社となる
25年 (2013)  

有効成分フルルビプロフェン含有医療用プラスター剤
「ヤクバンテープ20mg・40mg・60mg」製造
有効成分フルルビプロフェン含有医療用パップ剤
「ステイバンパップ40mg」製造
大正富山医薬品(株)より発売
代表取締役 社長執行役員 加藤隆彦就任

10月1日 OTC医薬品大正製薬(株)へ販売移管

26年 (2014)   本社を豊島区高田3丁目に移転
代表取締役 社長執行役員 福留潤一就任
28年 (2016)   代表取締役 社長執行役員 大澤勝一就任
29年 (2017)   代表取締役 社長執行役員 明戸孝夫就任
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永田徳本 人物伝
永田徳本先生
社名・製品名「トクホン」の名は室町後期から江戸初期にかけて活躍した「医聖」永田徳本に由来しています。当社では尊敬と感謝の念をこめて「徳本」先生と読んでいますが、実在の人物にもかかわらず多くのなぞを秘めています。まずはその出自ですが、永正9年又は10年(1512年・13年)に三州・高浜村(愛知県)又は甲州・谷村(山梨県)に生まれたとあります。ただ没年に関しては、寛永7年(1630)2月14日(118歳)で多くの資料に共通して記載されています(真偽不明)。徳本の名は「傷寒論医学」の世界においては広く知られており、現在でも専門教育機関での授業で名前が出るそうです。諸国を遍歴して生活していましたが甲斐に滞在していた期間が長かったため「甲斐の徳本」とも呼ばれています。
徳本は医療技術を僧医「玉鼎」から学び医者として大成しました。この頃から様々な地域を周りながら活動していたと思われます。
そして、大永・享禄年間(1521年〜32年)に甲斐の武田氏より招かれて武田信虎・信玄の主治医として仕え、信虎追放後の天文年間(1532年〜55年)には信州・諏訪東掘に居住していたと伝えられています。医療活動につきましては、後世の記録で様々なものがありますが、診療に行くときは首に薬袋をかけて牛の背中に横になり、金持ちよりも貧しい人々を対象に「甲斐の徳本、1服18文なり」と呼び鳴らして薬を売り歩いたといいます。
そのほかにも2代将軍・徳川秀忠を診察したなど興味深い逸話が残っています。
最後に「医聖」の意外な一面をご紹介いたします。それは「ぶどうの棚架け法」の考案です。現在の方法とは違うそうですが、竹を組み合わせて棚を作ったそうです。勝沼町の雨宮家で考案して指導したのが103歳の元和元年(1615年)頃と伝えられており、現在の勝沼町の様子と重ね合わせると徳本さんの偉業がより偲ばれます。

社名の由来

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